熱物性と私の思い出(学生時代 前編)




田中 勝之 (日本大学)




 昨年は,日本大学津田沼キャンパスで開催いたしました熱物性シンポジウムに多数の方々にご参加いただき,誠にありがとうございました.8月号の巻頭言には,昨年度のシンポジウムの実行委員長が執筆することになっていますので,僭越ながらタイトルのとおり,学生時代から続けている熱物性研究と熱物性学会における思い出を書かせていただき,最後には,学会の未来に思うことを述べさせていただきます.
 私は高校卒業後に1年間浪人し,慶應義塾大学の機械工学科に入学したのは1995年4月であり,阪神淡路大震災の数か月後でありました.学部4年生で研究室に入るまでは,座学で一生懸命に勉強していたと思いますが,余り記憶が無く,ただ,同期の田口良広君(現 慶應大学)と学生実験が同じで,私が当時もテキトーな感じであって,田口君に小馬鹿にされていたことは覚えています.多分,今も熱物性学会で私が同じような感じで田口君との関係が続いているからであるからと思います.当時は,慶應大学にシステムデザイン工学科が設置される前であり,機械工学科の中でSコースとEコースに分かれ,Sコースがその後のシステムデザイン工学科になり,田口君や粥川洋平君(現AIST)はSコースに進み,田口君は長島・長坂研(長島昭先生・長坂雄次先生)に,粥川君は渡部・佐藤研(渡部康一先生・佐藤春樹先生)に配属され,私はEコースに進み,上松研(上松公彦先生)に配属されました.私が上松研を選んだのは,Eコースの工場見学で引率していただいたのが上松先生であり,そのときの雰囲気から少し厳しそうな先生が自分には良いかなと思い,先生の人柄で決めました.ところが,少しどころか,とても厳しかったのです.ただ,今の自分は上松先生のご指導が無ければ,教員にもなれなかったと思うので,とても良い選択でありました.と,今では言えます.
 さて,上松研への配属になり,熱物性の研究が始まりました.4月早々に卒業研究テーマを決めることになり,大学院生と共に進める既存のテーマが並ぶ中で,新しく装置を開発するテーマが1つあり,そのとき,何も分からなかったせいか,魅力的に感じ,他の学生とじゃんけんで勝ち取りました.そして,テーマが決まった直後に大学院生の先輩達に「ドクター決まりだね」と言われ,実際にそうなりました.そのテーマが,カロリメーターの開発でありました.当時の上松研には,実験装置が3つあり,全てベローズを試料容器としてPVT性質が測定でき,臨界点の測定に特化したものと,200 MPaまでの高圧に特化したものと,7 MPa程度の通常のものがありました.いずれの装置もシリコンオイルを熱媒体とした恒温槽を用いており,310 K~440 Kの温度で測定していました.また,測定対象は,メタノール水溶液やアンモニア水溶液でありました.私の新しいテーマも同様の温度・圧力範囲で,アンモニア水溶液の熱量性質を測定するカロリメーターの開発が目標となりました.研究室には,熱量性質の測定装置が無かったので,とても大変でありました.テーマを決めたときは,熱量性質として混合熱を測定することになり,直ぐに文献を調べてフロー式のカロリメーターを提案しましたが,却下となりました.アンモニアを扱うので,安全面から少量の試料で測定しなければならないとのことで,バッチ式で再検討をおこないました.再度調べるうちに,京都工芸繊維大学の高木利治先生の論文を見つけ,バッチ式の混合熱測定装置を開発されていたので,早速,高木先生を訪問して,お話を聞きました.研究室に入ったばかりで,研究費の使い方は分からずに行ってしまったので,当然,上松先生に怒られました.今思うとその旅費は上松先生のポケットマネーであったのかもしれません.今,自身が教員の立場として,同じことを学生がしても,同じ対応はしないだろうなぁと思ってしまいます.と,ここまでは1998年4月に研究室に配属されて半年足らずの8月までの思い出であります.続きは,【会員交流】熱物性と私の思い出(学生時代 後編)をご覧いただきたいと思います.

--- 以下は同号【会員交流】に掲載の後編記事となります(広報担当より). ---

 半年足らずで早速,上松先生に怒られましたが,私は頑張っていました.過去の博士論文を見て,書けるようになる必要があると思った装置の立体図を学部4年生の秋には,修得していました.当時は,3DCADでなく,2DCADでテクニカルイラストレーションにより3D図面にした.高木先生の装置を模倣して,バッチ式の混合熱測定装置の試料容器を描きましたが,構造が複雑で,漏れることの対策が不十分で却下されました.結局,実績のある研究室に既存のPVT性質装置を基本とした構造でないと却下されると思い,臨界点装置を模倣して,水平に置かれた円筒容器の前後に窓ガラスを持つ臨界点セルの部分をカロリメーターに置き換える構想になりました.その結果,円筒容器内にヒーターと温度計を備えたカロリメーター部と金属ベローズを配管でつなぐ構造となり,試料が混合できないので,混合熱ではなく,比熱の測定に代わり,ただし比熱を測定するにしても,厚肉の圧力容器を用いているため,試料の熱容量に対する圧力容器の熱容量が大きすぎて,断熱されていない容器から周囲への熱損失も大きく,配管でつながれたベローズへの試料があるために,カロリメーター部にある試料の質量も決定できない装置となり,失敗に終わりました.再度,設計をやり直したのは博士課程の3年生のときであり,オーバードクターとなりました.ただ,失敗を基に再設計したカロリメーターは,オリジナルな構造になりました.ベローズ部とカロリメーター部は一体型とし,ベローズ容器の中にヒーターと温度計を挿入し,薄肉のベローズによって,試料に対する容器の熱容量は小さくなり,ベローズは薄肉であっても周囲は圧媒体があるので,ベローズ内の試料は高圧にすることが出来,圧媒体に窒素ガスを用いていたので,断熱性は高く,周囲への熱損失が小さくなり,試料の熱容量による温度変化を捉えられるようになったので,数%程度の精度で測定できるようになり,高温高圧下におけるメタノール水溶液の定圧比熱の測定で,博士論文を完成させ,2007年3月に博士号を取得できました.学部4年生で始めたのは,1998年4月でありますから,9年間の時間を要しました.ギリギリで課程博士として取得することができました.この2年前の2005年4月からは,いわき明星大学で教員として採用していただき,助手として勤めながら学生と教員の二足の草鞋を履いていました.受け入れていただきました東之弘先生(現 九州大学)は,慶應義塾大学の先輩であり,熱物性シンポジウムでも何度もお見掛けしていたこともあり,熱物性学会での交流がとても大事であることを痛感しました.また,博士号を持たないまま助手となったので,2年間で博士号を取得しなければならないと激励をいただきました.勤めたことにより,経済的に救われましたが,週末は,福島県いわき市から,慶應義塾大学日吉キャンパスの横浜市へ通い,上松先生には過度なご負荷をお掛けしてしまいました.私が博士号を取得後,上松先生は亡くなられました.大変申し訳ない気持ちでいっぱいです.昔であれば,今書いている原稿の文字は,涙で滲んでいます.
 上松研での9年間は長かったですが,この間に慶應大学の学生であって,今も熱物性学会で会うメンバーは,同期では,田口君,粥川君の他,上松研でも助手をされていた宮本泰行先生(現 富山県立大),長坂研には,山本泰之君(現AIST),元祐昌廣君(現 東京理科大),上松研から修士で森研に移った室町実大君(現 横浜国立大)と,少し年齢が上の先輩になりますが,大村亮先生(現 慶應大)と長野方星先生(現 名古屋大)がいらっしゃいました.私が修士2年のときに上松研の学部4年生となったのが,迫田直也君(現 九州大学)でした.年下であった迫田君も,私よりも先に博士号を取得し,私は取り残された感がありましたが,幸い,いわき明星大学で,東先生の下で,測定対象は冷媒に替わりましたが,熱物性研究を続けられました.また,いわき明星大学では,さらに交流が広がっていくことになりました.続きは,11月号の【会員交流】熱物性と私の思い出(いわき明星大学時代編)をご覧ください.

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