25年目の・・・・・




阿部 宜之 (産業技術総合研究所)





 いつもは誌面を4,5分程度で流し読みし、即本棚に放り込む日本機械学会誌であるが、2010年2月号だけは2回も読み直した。膝の前十字靭帯(ACL)損傷メカニズムに関する小笠原氏の解説記事である。
 坂道を駆け上がろうとした際、右膝の異常を感じたのは昨年末のことであった。ふと、26年前の右膝ACL断裂後の膝の異常の記憶が頭をよぎったが、これと言って思い当たる節はなかった。しかし、もしかしてあの時の、程度の記憶がないこともなかった。いずれにしても、“ブチッ”というような断裂音、膝の腫れ、痛みといった通常のACL断裂時の症状は全く覚えがなかった。
 正月明け草々に、10数年ぶりに膝の専門外来を受診し、触診でACLがほとんど効いていないことを告げられ、後日撮影したMRI画像にはACLらしきものは何も写っていなかった。かくして、25年ぶりのACL再建手術(正確には再再建手術)を受けることなった。  (なお、気の弱い読者にはここから先、本稿を読み進むことをお奨めしかねる)
 25年前の再建手術では、大腿部の腸徑靭帯を用いて再建靭帯を作製し、大腿骨、脛骨の関節部に穴を開け、再建靭帯を挿入後、上下端を金具で固定した。当時としては、最も信頼性の高い再建術であったが、全身麻酔手術であったため、不覚にも爆睡し、術中に目を覚ますことはなく、手術の経緯を垣間見ることはなかった。大腿部外側には7cm、膝の脇には10cmの傷が残り、再生不能な腸徑靭帯を採取したため、大腿部はやや凹んだまま今日に至っている。また、術後1週間ほどはギブスで固定し、リハビリの本格的開始は約1ヵ月後であった。
 さて、25年間で再建術はどれだけ進歩したのであろうか?今回は下半身麻酔であったため、内視鏡のモニターを通じて、手術の様子を執刀医の解説付きでリアルタイムで鑑賞することができた。内視鏡挿入後、真っ先に目にしたのは、内視鏡液中でイソギンチャクのように漂っているボロボロに断裂した再建靭帯であった。どうやら、初回のように一気に断裂した訳ではなく、25年間の酷使に耐えかねて、徐々に断裂に至ったようである。
 今回の再建靭帯は膝の内側後方の半腱様筋腱(2、3年で再生)を用い、前回の手術では、再生靭帯1本であったが、今回は2本用いた。まず大腿骨に6.5mm(執刀医が“6.5”と指示していたので恐らくドリルの直径であろう)の穴を新たに2本、多少V字に近いような角度で下方から開け、脛骨にも下方から関節に向けて2ヶ所穴を開けた。次に、膝の内側下部から器具を挿入し、半腱様筋腱を採取し、2本の靭帯を作製し、穴に通していく。モニターに姿を現した真新しい“靭帯”は、薄ピンク色に輝き、力強く見えたが、一方で、何となく小学校の理科の実験のカエルの足を連想させた。膝周辺の傷らしい傷は、半腱様筋腱採取時の3cm程度の傷程度に留まった。また、3次元画像支援ナビゲーション(保険適用外先進医療:93,000円)を併用し、再建手術の精度を高めている。術後は、ギブスでの固定もなく、翌日から軽い曲げ伸ばしのリハビリが開始され、10日後には松葉杖も不要となったのには、我ながら驚愕した。
 ACL手術と言えば、バンクーバー銅メダリストの高橋大輔選手が有名であるが、彼も同様の再建手術を受けている。一方、高分子材料等の人工靭帯の使用は確かに患者の負担を軽減でき、25年前にも存在した。しかし、当時の担当医は人工靭帯には当初から否定的で、その後、人工靭帯は再断裂症例が多数報告され、現在はほとんど使用されていない。私が知っている限り、人工靭帯を用いたのはかつての清水エスパレスのエース大榎克己選手、旧電総研サッカー部の同僚程度であり、大榎選手は術後2年間Jリーグでプレーをしたが(得点なし)、私の同僚は、ついに再度ユニフォームを着ることはなかった。
 高橋選手は手術前に比べ、膝の可動域が広がり、ステップ技術が更に向上したそうであるが、私の場合・・・・、多少の期待感を抱き、目下リハビリに奮闘中である。


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