身近にあって頼れるもの
高石 吉登 (神奈川工科大学)
私ごとで恐縮ですが,私と熱物性の関係は,1970年代後半,慶応義塾大学工学部機械工学科(当時),渡部康一先生の研究室で,卒業研究として,冷媒の熱力学性質についての実験的研究に加わったことに始まりました.引き続き,大学院においても渡部康一先生から熱物性研究の手ほどきとご指導を受ける機会に恵まれました.さらに,神奈川工科大学に勤務するようになり,小口幸成先生のご指導をいただきながら,機械工学を学ぶ学部生や大学院生とともに,作動流体,混合物,冷媒,熱力学性質,輸送性質,溶解度などをキーワードとする熱物性に関わる基礎研究を機械屋の観点から続けてきました.
そのようなわけで,私の研究室の書棚には,熱物性学会関連では,第1回からの「熱物性シンポジウム講演論文集」,Vol.1(No.1)からの「熱物性」誌はもちろんのこと,「熱物性ハンドブック1990」,「新編熱物性ハンドブック2008」,その他の学会のものでは,日本機械学会の「蒸気表」,日本冷凍空調学会関連の「冷媒熱物性値表」などが常備されています.
これらの書籍のうち,「熱物性ハンドブック1990」および「新編熱物性ハンドブック2008」は別格です.当研究室に所属する学生が頻繁に触れるのはもちろんのことですが,噂を聞きつけ機械工学科の他の研究室の学生もしばしば来室し,各々が欲しいデータを手に入れるために熱物性ハンドブックのページをめくり,コピーを繰り返し,利用しています.そういうわけで,旧版の「熱物性ハンドブック1990」は,当研究室や近隣の研究室の代々の学生達によって頻繁に利用され続けたことにより,可哀そうほどにボロボロの状態となっています.最近世に出た「新編熱物性ハンドブック2008」も,おそらく旧版と同じような運命をたどることになるでしょう.
「熱物性ハンドブック」といえば,次のようなこともしばしば起こりました.エンジニアとしてメーカーの設計部で働いている卒業生から電話が入り,「厚くて,重くて,何でも出ていて,調べものによく使った,研究室の本棚にあったあの本の名前と出版社を教えてください.Aという材料のBという性質を調べたいのです.仕事で・・・,どうしても・・・」という.そのエンジニアは,自分の仕事上の問題を解決するために,必要にせまられ,学生時代に研究室でよく使ったあの「熱物性ハンドブック」を思い出したのでしょう.
熱物性ハンドブックのような出版物は,コンピュータを利用したデータベースやネットワークの時代になった現在においても,依然としてその存在価値を失っていないものであると思われます.ハードカバーの古典的な書籍の形態ではありますが,研究者や技術者のいる仕事場の身近にあって,すばやく手に取り活用できるのは何とも便利なことです.また,「新編熱物性ハンドブック2008」を手に取ればすぐにわかるように,対象としている物質の種類と状態の網羅性,あるいは熱物性値の種類の多様性という点で,他を圧倒しています.さらに,熱物性ハンドブック所載のデータは,あらゆる分野のそれぞれの専門家の評価を得た,信頼性の高いものであるという点が非常に重要であり,これが熱物性ハドブックを大いに頼れる存在にしている理由となっています.
ある研究成果が,淘汰されて生き残り,直接的か間接的かにかかわらず,熱物性ハンドブックのような出版物に何らかのかたちで集大成され,それらを必要としているさまざまな分野の研究者や技術者の身近にあって頼れるものの一部になることができたとしたら,熱物性研究に携わるものとして何とすばらしいことでしょう.すでにあるものはさらに確かで信頼できるものに,明らかになっている領域はそれをさらに拡大するために,新たに登場する材料はその未知の性質を探求するために,必要とされ頼りにされるものを創り出すために,熱物性研究は,先人の肩の上に乗ってフロンティアを見据え,これからも休むことなく営まれ続けていかねばならないものであると確信します.