「熱物性」誌100号を祝い,発刊当時を思う




飯田 嘉宏 (横浜国立大学)




 この度「熱物性」誌が1987年の創刊以来,通巻100 号を迎えると伺いました.その継続が日本熱物性学会の興隆に加えて科学技術全体の重要な基盤構築に果たした実績をお祝いし,ご関係各位のご努力に深く敬意を表します.
 初代編集委員長を務められた小沢丈夫先生は,高いご見識に基づき学会誌として品格と実践性ある伝統を創って下さいましたが,残念ながら鬼籍に入られました.2代目委員長の私がご指名を受け,発刊当時を思う次第であります.
 日本熱物性研究会(現在は学会)は,工学を中心 とする各分野や産業界の広い多分野にありながら,それぞれ熱物性の重要性を知る優れた方々によって1980年に発足し,日本熱物性シンポジウムの開催を軸として研究及び利用の興隆と連携を図ってきました.当時は我が国産業の盛期でありましたが,学会組織は我が国独特の分野縦割りが普通で,広い分野の方々から成る横断型組織の発足は考え難い時代で,財務など困難なこともありました.しかし当時のリーダー役の方々の熱意と知性による采配と共に人間関係も大変よろしく,会の運営は国内・国際を問わず殆ど全てが順調に進んだと思います.こうして,工学・理学や産業界,農学・生活科学・医学や環境学その他の広い分野の方々の研究と連携が順調に推移し,また国際的連携も組織的になされ,本会の意義は次第に高まって参りました.
 そこで本会が科学技術にさらに貢献するために, 会誌を創って学会活動を一層活発にしようとすることになりました.会の情報を会員に伝えるために既にNews Letterを発行しておりましたが,本格的な情報伝達ができる学会誌にすると共にピア・レビュー付きの論文誌としての立派なものとする方針が当時の蒔田会長から発議され,編集委員会が検討することになりました.
 ここで,小沢先生が創刊号の巻末に「熱物性発刊までの経緯」を記されていますので,抜粋要約させていただいて当時の様子を振り返ります。
 「...会誌発行の課題をお引受して最初に考えたのは予算であった」と始めから苦しい状況が記され,当時の予算規模では活版印刷はとてもできないので,著者には大変だが全ページをワープロ・オフセット印刷にしたこと.「次に,編集要綱,投稿規定,原稿執筆の手引き,投稿論文審査内規を作成した」こと.「創刊号に相応しい内容を編集委員会で論議し,お忙しい諸先生方に執筆をお願いしたが,大部分の方に期限までに書いていただけた」こと.「表紙のデザインは公募して決めた」こと.最後には「よく雑誌は3号でつぶれると言われるが,内容を一層充実させるために会員の積極的な投稿とご意見を期待する」と記されております.最後は先生の軽いご心配でしたが,当初からの着実な計画による充実した内容と諸会員のご協力によって杞憂になりました.100号を迎えたことを,先生にご報告したいと思います.
 私は第1回熱物性シンポジウムの講演論文集担当 を務めましたので,会誌についても編集要綱,論文投稿規定,原稿執筆の手引きなどの原案作成にも参加しました.また講演論文集表紙の作成も担当しましたので,会誌にも同じようなものがよかろうと提案し,結局S-T線図のデザインを含む他の提案を複合させたものとなりました.現在でも論文集・会誌ともほぼ同じ体裁の表紙を使って下さっており,嬉しく思っております.
 大分老い老れてきた現在,30余年前の会誌創刊頃の記憶は薄れているのに書かせてもらいました.学会のますますのご発展と,以前ご一緒に努めた皆様,現在努力されている皆様のご健康を願っています.



「熱物性」通巻100号をお祝いします




牧野 俊郎 (近畿職業能力開発短期大学校)




 会誌『熱物性』が通巻100号を迎えたそうで,よろこばしい限りである.私は,第1号からの会誌を京都大学の書棚に並べていたが,この3月にその大学を退職するときに,長さが500mmに及んだ書棚の会誌をそのまま大学に残してきた.その内容の大半は学会30周年記念の折にCD出版されていたので,資料としての不便さはないのであるが,馴染んできた白地にオレンジ色の帯の会誌の列が消えたのはさみしい.
 上記のCDを見ると,会誌は1987年4月に創刊された.最初の編集委員会委員長は小澤丈夫先生であった.その委員会には私の恩師の国友孟先生も加わっておられたが,創刊のたしか2年前には,会誌を定期刊行するなんてたいへんなことだ,できるかな,と心配しておられた.次の委員長は飯田嘉宏先生,第3期の委員長は上松公彦先生であった.その上松委員会では私も委員の1人に加えていただいた.上松委員長は,会誌の発行システムを整備し,それまで委員会や学会事務局が負っていた多大な負担を学会誌刊行センターや印刷所に委嘱して下さった.年に2号の会誌を季刊に発展させたのも上松委員長であったと思う.その後の第4期の委員長が私に廻ってきた.たいへんなプレシャーを感じたのを憶えている.それは1991年のことで当時私は42歳であった.
 幸いにして,私には,こんな広い領域をカバーするこの学会の会誌編集をリードできるわけがないと本能的にわかっていた.それで,私は,大胆にも大物の先生方や著名でもとくに親しくはなかった若い方にも委員会に加わっていただいた.第4期編集委員会の委員をお務めいただいたのは,今石宣之・大隅正人・斎藤彬夫・崎山高明・佐藤 譲・高木利治・長坂雄次・丹羽雅子・馬場哲也・原田 誠・ 東之弘・藤川重雄・牧野俊郎・松本 衛・山田悦郎 の15名の方々であった.
 当時インターネットやメールシステムはなかった.会誌の記事や論文の著者・編集委員・学会誌刊行センターとの連絡のすべては郵便か電話で行った.記事の原稿はドットインパクト印字されたB4紙で郵便往復された.編集委員会の会議は集まってやるしかなかったが,委員会の予算は少なく,旅費は委員お一人に年に1万円ずつくらいのところでお願いしていたと思う.それでも委員の皆さんはよく集まってくださり,適切な示唆を与えてくださった. 会議を京都で開くときには,京都のお祭りの日を選んだ.会議の後には必ず懇親会をやった.
 編集委員会の課題は当時もいろいろあったが,まとめると次の3点であったかと思う.第1に, 原著論文の質/学界での評価を高めることが重要であった.Editor/ reviewer 制を採って審査システムを厳格化・定式化するとともに,それが外に見えるように審査の流れ図を示すようにした [1].第2には,年に2回くらいは,広い学術領域の人たちが集まるこの学会ならではの特集記事を組みたいと思った.“大物” の先生方の人脈とご見識がそんな企画を可能にして下さった.なかでも「雪・氷と利用技術」という特集[2]は忘れられない.第3に,この会誌にもう少し取っつきのよいコラム的なページがあってもよいと思った.そんな想いを旧横浜駅の飲み屋で竹内正顕先生と長坂雄次先生に持ちかけたところ,その場で “さーもふぃじしすと” の素案が生まれた.この企画は10年以上つづいて,この学会25周年のときには25の記事が復刻され記念出版された[3].この “さーもふぃじしすと” は再開されてもよいと思う.【コラム】という範疇のものであった.堀部委員長いかがでしょうか?
 学会には2つの歯車がある.1つは,年に1度のシンポジウムであり,もう1つは,平素にも学会員を繋ぐ学会誌である.こんごともに,熱の広い学術領域で知的な関心を持って楽しめるこの会誌『熱物性』が刊行され続けることを期待する.

[1] 編集委員会:原著投稿論文の流れ, 熱物性, vol.7, no.2, p.142, Apr. 1993. [2] 斎藤彬夫,長坂雄次編:[特集] 雪・氷と利用技術, 熱物性, vol.8, no.4 pp.223-275, Oct.1994. [3] 日本熱物性学会編:“さーもふぃじすと”, 日本熱物性学会, Oct. 2007.


熱物性研究者(理論,計測者)と熱物性ユーザーが交流し,新しい価値を創造して社会に提供する場,それが熱物性誌




山村 力 (東北大学)




 私が日本熱物性研究会に出会ったのは1983年に開催された日米セミナーでした.東北大学での溶融塩物性研究の成果と,米国での研究成果をボスの Janz先生の発表の一部に入れていただいて発表したのがきっかけでした.そのセミナーに続いて第4回日本物性シンポジウムが開催されました.そのシンポジウムで日本の重厚な熱物性研究者と熱物性のユーザーとが交流する熱物性研究会を知りました.研究分野は,量子力学が生まれるきっかけとなった輻射理論から物質・熱輸送の科学,計測の理論という幅広い専門分野,対象も気体・液体・固体,工業材料から食品まで,計測技術も原理に基づく緻密なものから簡易測定までとその幅の広さが印象的でした.学問や技術の革新的発展は異分野の交流から始まります.また,熱物性学会には熱物性を使って革新的な「もの」や「こと」を創出したり,生産技術の更なる向上を目指す方々の研究活動への参加もあります.シンポジウムでは,自分の専門分野以外の話を聞いて理解に困惑すると同時に強い刺激を受けました.熱物性学会は革新的な科学や技術を生み出し土壌を提供する場であると確信しました.
 1995年9巻3号から1998年12巻2号まで第5期熱物性誌編集委員会編集長を担当させて頂きました.4期委員長の牧野俊郎先生から見事に整理された引き継ぎ資料が届きました.5期の編集を出版するにあたって十分な財産(掲載予定論文,記事など)も残していただいておりました.多彩な専門分野の会員の研究および文化の交流の場としての熱物性誌の役割を認識して身が引き締まる思いで編集を開始いたしました.9巻3号の編集委員会の挨拶文で「会員の学術・人物交流の場として,また研究成果発表の場としてお役にたてるように努力する所存です」と書きました.強力な委員の皆さまの支援を頂きました.第5期編集委員会発足当時の編集委員名簿を以下に引用します.編集委員(敬称略): 今石宣之,上園正義,大西 晃,金成克彦,斎藤武雄,崎山高明,佐藤 譲(幹事),渋川祥子,高木利治,寺井隆之,長坂雄次,丹羽雅子,馬場哲也,東 之弘,牧野 敦,の皆さんです.「ならぬことはならぬ」の一徹さと,熱物性研究の普及のためなら喜んでビギナーや異分野の方に支援の手を差し伸べる方々です.委員長がボーッとしていても何とか務まった理由が良くお分かり頂けるかと思います.
 研究論文の審査と掲載が最重要の任務でした.学術誌のインパクトファクターが話題になり始めました.論文の審査が極めて厳正であることを証明する文書を会員の業績申請に添えることもありました.
 委員会の芸術レベルの高さのお陰で学会のロゴを選定・推薦することができました.いま使われている学会の素敵なロゴが長坂雄次先生の作品であることをご存知でしょうか.また,会員へのサービスで「熱物情報92」などを毎年掲載しました.各分野の第一人者の目を通じてその年の学術の進展を概観して頂く記事でした.執筆の労を厭わず,ご協力いただいた筆者の方々に改めて感謝申し上げます.  すべての産業分野で今,環境問題が課題であり,熱物性誌が生み出す学術がその解決に役立ち続けております.日本熱物性学会と本誌のますますの発展を確信しております.



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