古典や禅語が教えてくれること 理系が不得意なことの言い訳としての自称文系のはなし




山田 雅彦 (北海道大学)



 私事で恐縮ですが,高校時代は2年生から理系・文系のクラスに分かれており,私は理系クラスでありながら文系科目,特に古文・漢文が好きでした(成績は最悪でしたが).古文や漢文は,現代文とは異なる文調の中に先人たちの経験や智恵が盛り込まれており,表現が非常に簡潔で研ぎ澄まされていることが好きでした.徒然草などの学校で習う古典にも多くの含蓄のある記述を見つけることができます.
 古典から学ぶ,すなわち『故きを温ねて新しきを知る』というのは,新しいことを始める前に先人たちの経験に敬意を持って深く学ぶべしということと思います.新しいことを始める際に,古いことを単に全否定するのではなく,なぜ従来はそうなのかという『経緯』やその『背景』を理解した上で新しいものを積み上げてゆくべきであると.
 先日,あるテレビ番組で,松尾芭蕉の『古池や・・・』という俳句を日本の国語学の第一人者の先生が解説するコーナーを見ました.その先生の解説は,俳句の心象風景を説明するものでした.ちなみに,松尾芭蕉が在家居士として禅僧に師事していたこと,この俳句の『背景』には禅宗で言う悟りということに深く関わるものがあることをご存じでしょうか.ここにも,普段は知られることのない古典の『背景』があります.
 学部生時代に,ふとしたきっかけで禅宗の不可解な公案に興味を持ち,片端から関連する本を読みあさったことがあります.ただし,宗教に傾倒したり,座禅にはまったりしたのではありませんので,そこは念のため.
 さて,前述の公案とは,禅宗(主に臨済宗)の僧侶が修行の上に悟りを開くため,師匠が与える課題(問題)のようなものです.また,禅語とは,過去の禅僧の言動を記録したものを言い,公案にも多く用いられています.
 師(教員)が弟子(学生)を教え導く際の工夫でもありますので,これら禅語の中には,教員が学生と向き合う際の心構えとして参考となるものや共感できるものが多くあります.ほんの一例ですが『冷暖自知(れいだんじち』と『啐啄同時(そったくどうじ)』という禅語を紹介します.
 『冷暖自知』は説明不要かと思います.熱いか冷たいかは自分で触れてみてはじめてわかる.学生にはすぐに解答を求めずに自分で考えて理解に達してほしいという思いはいつの時代も変わらないと思います.『啐啄同時』とは,雛鳥が卵から孵る際に,雛鳥が殻をつつくと同時に親鳥も殻をつついて殻を破るのを助けるという意で,学生が自分でとことん考え抜いたところに先生が何らかの助言で解決の手助けをするという指導の理想の姿を表している語です.
 最後に,数ある禅語の中で私の印象に最も強く残っている,『三顧の摩』という言葉を紹介させて下さい.学生時代に読んだ,白隠慧鶴禅師という江戸時代の禅僧の生涯を解説された本に書かれていたのですが,何かをするにつけこの言葉が浮かびます.この語は,白隠禅師が幼少時に出家して剃髪した際に,祝偈(お祝いの漢詩)として送られた言葉にあるもので,その由来は,経文に曰く,『出家は須く日に三度首(こうべ)を摩して顧みるべし.一にはこの頭何が為にか剃る,二には剃髪後何を以てか業となす,三には畢竟何事を成し得てか果となす』とあります.これは,僧侶に限らず,私たちが何事かを成し遂げようとする際に心すべきことを単純明快に言い切っているかと思っています.20年ほど前に,とある拙文でこれを拝借(換骨奪胎)し,「何故に大学人となり,大学人として何を成し,畢竟何を持って果とするか」などと偉そうなことを書きました.今にして思えば汗顔の至りです.定年が近いこの歳になって,最近は何かにつけてこの言葉を思い出し,そのたびに,私自身は毎日反省もせず,日々何かを成したとも思えず,まして,果とするものがあったとも思えず,情け無い気持ちでいっぱいになります.
 学会にとって重要な冊子であり,しかも季刊という貴重な学会誌の巻頭言に,場違いな駄文を呈したことをお詫び申し上げ,また,今回執筆の機会を与えて下さったご関係各位に厚く御礼を申し上げます.

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